斐伊川

 人の気配も、獣の気配も、妖怪の気配すらない夜の河。
 人の灯りも届かない場所にある河の上流。
 河を照らすのは月の光のみ。
 風すらも寝静まったかのような静寂の中で一匹の鬼が月を呑んでいた。
 いや、月を呑むという表現は正しくないのだろう。
 水面ならぬ酒面に浮ぶ月を呑んでいると言ったほうがよいだろう。
 鬼の表情は月の明かりだけでは判別をつけることは出来ず、そして長い髪のため、口元しか見ることができない。
 何か物思いにふけているようにも見え、仄かに笑っているようにも見える。
 最も鬼の周囲には誰も居らずその鬼を見ているのは月か、それか水しか居ないのだが。
 それは特別なことのない、月見酒だ。
 ただ一つ妙な部分があるとすれば鬼は天へと顔を向けず流れる水を見つめていることか。
 水面に浮かぶ月を見つめる視線にはどこか懐かしさと郷愁の念が宿っているように感じられる。
 まるで何かの死を悼むような。

「こんなん私の柄じゃないんだがなぁ」

 じゃらん、と音を立て鬼の鎖が鳴る。
 酒を飲むために手を動かしたからなのだが、けれどまるで同意するかのように鬼には思えた。
 口を三日月に歪め酒を一息に、呑み干す。
 自分の感傷で満たすかのように。
 鎖に付いた丸は河に向かって垂れ下げられており、もう片方の三角は人の住む方向へと向かって伸びている。
 鬼は何に思い馳せているのか。
 自らの祖か、自らの父か、それともこの先か。
 わかるとするならば、それはこの鬼か心を読む妖怪ぐらいだろう。
「親父も先祖も、これ呑んで死んだなんて馬鹿らしいね」
 瓢箪から酒を注ぎ、飲み干す。遠く空の色が茜色になるまで鬼は飲み続ける。

 人を蒐め、人を萃め。
 香りの如く人と遊び。


 鬼は弾む心で思う。
 人間は鬼を討ち果たすことが出来るのだと。
 そして思う。  妖怪としての畏れを得るのは鬼として当然だと。
 浚い、喰らい、隠し、倒す。  それが絆だと、人間も鬼も無意識の内にそれを理解しているのだと。
 遠い昔に交わした、約定。
 けれど。
 鬼はふと考える。
 人は約定を、約束を、忘れてしまうのではないかと。
 考え、すぐに思考を笑う。
 そんな先のことを考えていることに。
 不変にして普遍たる鬼は未来を考えることなく、ただ無邪気なまでに約束を信じ続ける。
 人間は裏切らないと。自分たちが裏切ることがないのだからと。

  鬼は遊ぶ。
  隠し、浚い。
   決闘の元に。
    人間と共に。

  未来に思いを馳せる人間を笑い。
 人と鬼がある限り永劫に続く百鬼夜行を楽しむ。

    人は遊び。
   鬼も遊び。
  鬼は笑い。
 人は怒る。

 鬼は知らないということを、鬼は知っていない。
 嘘という言葉を鬼はもたず、人を信じているが。
 人は嘘を得て鬼へと相対し、いずれ打ち払う。
 それは、未来の話であって、鬼は人の世から去る。

 その日が来るまで、鬼は遊ぶ。
 人と遊ぶ。
 未来を考えもせず、鬼は笑う。

 不変である鬼は、未来を笑う。
 祖先たる八つ首の竜や、父親のように打ち倒されることはあるのかと。
 人が自分を越える日を楽しみに。

  

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